密教伝来と摂関政治が分かる!マンガ日本の歴史8

マンガ日本の歴史8

石ノ森章太郎の『マンガ日本の歴史8』を読了した。

本巻で描かれるのは800年代の日本の姿である。文化的な側面で言うと、密教としての仏教が唐から日本に伝わった時代であった。政治的な側面では、藤原北家が頭角を現し、政治の実権を握っていく時代であった。

帰国した最澄と空海はどのような関係であったのか? 藤原氏が地位を高めていくプロセスとはどのようなものであったのか? マンガを使うことで、分かりやすく学習を深めていくことができた。

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最澄と空海の対立

空海(左)、最澄(右)

唐で仏教を学んだ最澄は805年に帰国し、比叡山に天台宗を開いた。空海はより長く唐に滞在し、806年に帰国、高雄山に入る。

最澄は空海の持ち帰った密教がより完全なものと知ると、一旦は空海の弟子となる。しかしその後は弟子の所属を巡って対立するようになり、二人は袂を分かつこととなった。

その後、最澄は東国で熱心に布教活動を行うようになった。一方、空海は高野山に修験道場を開き、弟子たちの修行を指導した。

藤原北家の摂関政治

藤原義房と基経

8世紀中ごろの平安京の中枢では、藤原北家が実力をつけ始めていた。その藤原北家の代表格が、藤原義房である。

義房は842年に大納言に、848年に右大臣に、857年に太政大臣となった。そして858年にわずか9歳の清和天皇が即位すると、その摂政として国政の実権を握った。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの昇進だったと言える。

義房の後を継いだのは甥である藤原基経であった。876年、10歳の陽成天皇が即位すると、やはり基経が政治を総覧する。その後の光孝天皇、宇多天皇は成人の天皇であったが、結局は基経に政治を執らせた。このときの基経の地位を関白と言う。

以後、二世紀にも渡って藤原氏による摂関政治の体制が続いていくことになる。

雑感

藤原義房は自家の女性を次々と皇室に入れることで、天皇との距離を縮めていく。家系を使った戦略で、着実に地位を固めていったのである。

このような描写から、藤原義房は非常に計算高く、野心家であるという具体的なイメージを持つことができた。このように、マンガでは歴史上の人物が生き生きと描かれているから、彼らの人物像を明瞭に思い浮かべることができる。

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